理解りみ深し君

理解りみの深いブログ

【小説】蛇とカモミール【長編】

【蛇とカモミール

 一

 雨の中の喫茶店。丘の上に立つログハウス。
 眺めの良いウッドデッキは自慢だが、生憎今日は使用できそうもない。
 照明は光度の弱いものが選定されている。
 現在のように厚い雲が太陽光を遮断する時は昼でも店内は薄暗かった。剥きだしになった頑丈で太い梁の上部には薄い影が立ちこめている。
 エプロンの下に着ている店の制服である黒いカッターシャツが体に密着し、少し蒸す。厨房の壁についたスイッチをいじって、空調を冷房弱に設定して点けることにした。
 表のドアには定休日と書かれた木札が掛かっているが、とある来客に備えて私は店支度をしている最中である。
 コンロの上では、底の深い鍋に砂糖と一緒に大量のアメリカ産グレープフルーツの果肉がグツグツと煮込まれている。店は柑橘類特有の苦みと酸味が混じった甘いジャムの香りで充満していた。
 しとしとと降り続ける梅雨の音に耳を傾け、ジャムを混ぜるスパチュラを持つ手は何度も止まった。
 こんな雨の日の退屈な時間は、自分はいったい何者であるかなんていう、或る種哲学的な問いについてセンチメンタルにも耽ってしまう。
 こういった考えを巡らせてしまう癖がついたのは、中学校に入学して第二次成長期の訪れと共に強大な自尊心が芽生えはじめたあたりからだったと思う。
 別段、この人生の課題とも呼べる哲学的な問いから導きだされる答えは毎回お決まりで、大それた其れにはならない。至極シンプルで、単純明快で、陳腐なものだ。
 なのだが、奇妙な話、その答えは本当に自分が導き出したものであるかというのは、私は確固たる自信が持てなかった。
 何故ならば、私が何者であるかというこの問いが浮かぶ度に、私のものなのに私のものではない声から、自動的に返答が脳内に直接ひびき渡るからだ。そして、まさに今も聞き慣れたその声が聞こえる。
『お前は橘つつじ、三十二歳。喫茶カモミールの雇われオーナーをしている』
 事務的で落ち着いたその声は、時々で手元に置いて読んでいる原稿の文面を少しずつ変化させる。
 年齢の部分は年々繰り上がる。学生をしていた時期は学校名と所属していたクラス名がアナウンスされた。短い期間だったが高校時代に文芸部の部長を務めていたときは、オマケのようにその肩書きがお尻に付け足されたりもしたこともあった。
「そう。私は現在、海辺の小高い丘に立つ、この喫茶店の雇われオーナー」
 学生時代に何度も聞いた肩書きよりも、数倍もまともである。自分が何者であるかという問いに対して、悪くはない返答だとさえ思う。しかし、決まってその傍らで、それでいいのかと深層心理に潜む強欲さが顔を出すのだ。彼は低い声でこう囁く。
『お前はこの辺鄙な田舎で一生を終えるつもりなのか、店を広げてみればどうだ。名声を得たいだろう、大金が欲しいだろう。店はそこそこ繁盛している。多くの雑誌でも記事になっていたではないか』
 胸の辺りがムカつき始める。強欲が暴れ始めたのだ。
「貴方の声を真に受けて、私は何度も痛い目をみたわ。いい加減静かにしてちょうだい」
 キリキリと痛み出す胃の辺りに手を置いて、私は一人呟いた。すると、低い声は戸惑ったように声を震わせて、こう続ける。
『何故だ。あいつの声には従順に肯くのに、何故、私の声は聞き入れようとしない。もしや、――お前は本当に狂ってしまったのか。正気を失ったのか』
 彼が怯んだ為か、胸のムカつきも幾分か退いていった。私は情けないその様を嘲笑してやるように、口の端を歪めてやる。
「貴方は何か勘違いをしているわ。従うもなにも、あの声は…」
 そう呟いている途中、入口のガラス扉に紅色をした影が映った。
 傘。
 影の正体は紅い傘だった。石段からひょっこり頭をのぞかせている。石段を登りきった紅い傘の主は、ポーチで傘を閉じると、円筒状をした黒い質素な傘立てにそれを収めた。
 畳まれた傘からは白いワンピースを着た小柄な少女が現れる。ワンピースには青紫のスミレの花が散りばめるように刺繍されていた。
 カランコロンと鈴の音を立てて入口が開かれると、なじみ深い、か細い声が店内に響く。
「こんにちは。アジサイが綺麗に咲いていますね」
「いらっしゃい、苺ちゃん。待っていたわ」
 大切なお客様がいらっしゃった。独り言などこぼしている暇はない。

 二

 篠崎君が去年ここに訪れたのも、アジサイが咲いていた季節で、その時も小雨が差していた。
 午後五時を過ぎ、店仕舞いを始めた時だった。石段から学生服を着た一人の男子生徒が、ブレザーの上衣を傘代わりにして石段を勢いよく登ってきたのだ。近所で優秀な学生が集まる進学校と名高い高等学校のものだ。
 彼は入口前のポーチまで来ると店に入ることはせずに、そこで立ち止まって空を見上げた。
「どうしたの」
 入口のガラス扉を開けて声を掛けると、彼は酷く驚いていた。
「申し訳ありません。石段下の看板で閉店時間だと分かっていたのですが、どうしても雨宿りがしたくて。もう暫くすると家の者が車で迎えに来ますので、それまで」
 謝罪と弁明を口にすると、男子生徒は可愛らしいクシャミをした。私はそのクシャミがいたく気に入った。
「入って。当店自慢のカモミールティーをごちそうしてあげるわ」
 彼を店内へと施して「ちょっと待って」と口にしながら手で制した後、私はカウンター端の隣にある関係者以外立入禁止と表記されたプレートの貼られている木扉のノブを引いて開ける。扉の先には廊下がなく、狭い階段の踊り場だけがある。
 階段を上った先は私が居住している生活スペースだ。私は風呂場の脱衣所からフェイスタオルを手に取って一階へと戻り、びしょ濡れの男子生徒へと手渡す。
 彼は短いお礼を言い、まず手についた雨粒を拭った。
「何処でもいいわよ。好きな席に座りなさいな」
 催促すると、彼は入口に程近い、四人掛けの無骨なフォルムをした樫のテーブルへと着く。教科書などを大量に収納しているのか背中のリュックサックを床に置くとき、どさりと喧しい音が鳴る。
 宣言通り、彼にホットカモミールティーを淹れてやろうと用意を始めると、カウンター越しに見えた男子生徒の背中は小刻みに震えていた。どうやら、雨に晒されて体が冷え切っているらしい。
「スエットで良ければ着替えがあるわ。私ので悪いけどさ。見たところ、そんなに体型変わらないでしょ」
「そ、そんな。悪いですよ」
 顔だけで振り返って、彼はカウンター越しに私へと眉を下げて困り顔を向ける。
 まるでチワワのようだわと、そんなことを思った。
「お客さんにそう寒そうに震えられても、もてなす側は居心地が悪いわ。お願いだから着替えてちょうだい」
「…分かりました」
 渋々といった様子で肯くのを確認すると、私はお湯を沸かすために薬缶をコンロの上に置いて火を掛けてから、駆け足で二階へと再び上がった。渡してあるフェイスタオルじゃ全身を拭くのには不便だと判断し、バスタオルとそれからスエットを持ち出した。
「体もしっかりと拭くのよ」
「有り難う御座います」
 畳まれたそれらを受け取る際、さわやかな笑顔を浮かべて感謝の意を伝えてくる彼に、私は満足気に肯くとカウンターへと戻った。
 カウンターに戻った私はコンロの前に戻って、手を腰においた。そして、彼に気づかれぬように注意しながら、濡れた制服を脱ぎ始める男子生徒へと視線を定めた。
 私は意図的に彼へと着替え場所を提示していない。しないことで、暗に私の前で着替えることを強制した。年端もいかぬ高校生へと。
 お湯が沸くのを待つ間、私はじっくりと着替える少年の背中を観察することができた。
 ベルトを外す音、衣擦れの音、濡れた衣服を机の上に放る音。彼の若々しい白い肌と相まって、それらの音が全て艶めかしく店内に響いた。
 窓の外は薄い藍色に染まり、店先の木々の葉からポタポタと雨のしずくが滴り落ちる音が静寂さを引き立てている。
 これはまるで、――まるで、世界に私と彼以外に誰も居ないようではないか。
 彼が着替え終わるのとカモミールティーを淹れる用意が整ったのはほぼ同時であった。白で統一されたポットとティーソーサー、それからカップを彼の座る樫のテーブルへと運び、カップへとお茶を注ぎ入れる。たちまち、カップからは甘い香りと共にゆらゆらと揺れる湯気が立ち上る。
「ごゆっくり」
 紺色をしたエプロンの裾をドレスのスカートに見立てて広げて見せ、私はポットを片手にカウンターへと戻って、自分用にカップを用意してカモミールティーを注いだ。
 彼の着替えに集中していたせいで淹れ方を間違えたようであり、いつもと味が変わっている。もっとも素人には感知すらできない僅かな違いだが。
 ちらりと少年の背中へと目を向けると、グレーのスエットを着た背中は既に震えが止まっていた。
 濡れた制服を持ち運ぶように、パックで販売している茶葉の持ち帰り用にレジの下の棚に常備している大きい紙袋を渡してやる。男子生徒が制服を袋に畳んで収納し終えたタイミングで、彼の鞄からケータイ電話の呼び出し音が鳴った。
 どうやら迎えが到着したらしい。電話に出て短いやり取りを終えたあと、彼はティーカップの中身を一気に煽って空にし、それから重そうなリュックサックを背負うとカウンターに歩み寄る。
カモミールティー、美味しかったです」
 彼はそう言って礼儀正しく私に向けて頭を下げた。それから彼は、頬を指先で掻きながら照れくさそうに続ける。
「僕、いま大学受験の勉強場所を探している最中なのですが、よければ今後ここを利用させていただいてもよろしいですか」
 近くで見ると、彼は高校生とは思えないほど理知的な目を持っていた。それまでの言動からも育ちの良さが伺える。両親から高度な躾がなされた証に違いなかった。
 彼は教育に莫大な資金を貢がれた高級な人間だ。私の中で彼にそう評価が下されると、まるで春の息吹のごとく、冷たかった心の地面に小さな芽が伸び始め、私の中で眠っていた一面が突如として目覚める。
「ええ、もちろんよ。スエットも洗って返してね」
 笑顔で応えると、彼は少し頬を紅潮させた。
「はい。では、また後日」
 勢いよく踵を返すと、小走りで入口のドアを開け放ち、そのまま石段を駆け下りていった。
 その日を境に、私は彼を頭の中で渇望するようになった。寝る前は決まって彼の顔を浮かべて自慰行為をしたし、ポットにお茶を淹れる時も、レジを打って笑顔を振りまくときも、頭の片隅では常に彼の素敵な瞳の色を思い返していた。
 男子生徒は翌日から私に宣言した通り、定休日以外はほぼ毎日店を訪れて二時間ほど勉強をするようになった。彼はカウンターの一番奥の席を特等席に選んで、決まってそこを利用した。
 その席はガスオーブンの背面に位置しており、仕切り壁が障害になって丁度カウンターからは死角になってしまう。喋ったり、顔を眺めていたい私は、その席に着く彼に対してしばしば苛立ちを覚えた。
 そうやって薄い仕切り板をコミュニケーションの障害にしながらも、私たちは性行為を交わす関係に至ったのは出会ってから二ヶ月を経過した八月のことだった。その二ヶ月の間で私が彼について知った事柄といえば、篠崎華生という名前くらいだろう。

 三

 営業日ではあったが、その日は大型台風が接近していて、店を臨時休業していた。それにもかかわらず、いつも通り午後四時頃になると篠崎君は喫茶カモミールを訪れてきたのだ。
 唐突に入口ドアの鈴の音が鳴り、私は驚いて猫のように俊敏に振り向いた。私はその時、一階のカウンター席について文庫で痴人の愛を読み返していたのだ。
「こんにちは。もしかして、今日はお休みですか」
「あ、当たり前じゃない。呆れたものね、こんな日に」
 ぼやきながらも、私は胸中で犬のように尻尾をぶんぶんと振り回していた。自室に籠もらずに店舗スペースで読書していたのも、彼が訪れることを期待していたからに他ならない。
 いつもは学校指定の制服で来店する篠崎君が、白無地の袖が肘まで伸びたティーシャツに黒のスキニージーンズという格好で、靴は黒光りしたプレーントゥシューズを履いていた。
 トレードマークである重そうなリュックサックは背負っていない。勉強道具を持ち合わせない手ぶらな姿をみて、私は彼の意図することを瞬時に理解した。
 私はカウンターの席を立ち、文庫本を入口近くの本棚へと戻す。
「なにを読んでいたのですか」
谷崎潤一郎よ。大人の味わいで、最高にドキドキしちゃう」
 その時の私はキャミソールにワイドパンツという格好で、キャミソールは下着の用途も兼ねるタイプだったので、その下は地肌だった。
 篠崎君の前で私は普段、喫茶店の制服姿だ。制服は夏も冬も衣替えはなく、黒の長袖シャツとズボンの上に、紺のエプロンを羽織るというコーディネートである。つまり接客中は肌を殆ど露出していない。
 きっと彼の目には私の剥き出しになった肩や二の腕、それから体に密着するキャミソールが浮き彫りにするボディーラインが新鮮に映っていることだろう。
 男性の其れとは異なる柔らかな肉づきを、獣のような眼差をして物欲しそうに嘗め回しているに違いなかった。
 若い男達はおしなべて、そういった視線を誤魔化す術を心得ていない。不躾にも色欲に支配された卑しい視線を、肌の露出した女たちへと送ることを私は経験則上熟知しているのだ。
 監視役が周囲に不在となれば、その習性は殊更に増長されるだろう。
 今頃彼の心臓は早鐘が鳴らし、頭ではふしだらな欲望が足枷の鎖をジャラジャラいわせながら、『その女を今すぐに押し倒せ!』と叫び、暴れ回っていることだろう。
 事実、背後で彼はいつもの特等席に足を運ぶこともせずに、幽霊のように突っ立っているのだ。真夏の暑さにあてられた体温が、私の背中越しにじんわりと伝わるくらい近い距離を保って。
 もしも、今背後にいるのが篠崎君以外の別の男であれば、私はそもそも本棚に文庫本を戻す前に、ショールを洋服箪笥から引っ張り出しに二階の住居スペースへと走っただろう。
「それで、今日はどうしたの。荷物も持たずに」
 私は白々しくも、単刀直入に彼の目的を訊ねた。彼はしどろもどろになって、意味のない手振りを交えて語句を繋いでいく。
「夏休み期間中だというのに両親が連日夫婦喧嘩をしていて、自宅にいると息が詰まってしまって…。今日は友達の家に泊まると断って、自宅を出てきました。でも、本当は泊めてくれるあてもなくて。それで、その――」
「嘘は吐かなくてもいいわ」
 目を泳がせてまで後ろめたそうに出鱈目な供述を連ねる彼を次第に見ていられなくなり、私はピシャリと発言を抑止した。
 我が子に大人を唸らせるほどの礼節を弁えさせた両親が台風接近中に友達の家に泊めることを、ひいては悪戯に外出させることを、子供に許しを出すとは考えにくい。
 恐らく彼は両親に黙って衝動的にここへと訪れたのだろう。そして、台風による大雨暴風を口実に、宿泊の事後承諾を得るつもりだった。
『友達に急に呼ばれて遊びに出かけたんだけど、道が洪水になっていて車で迎えにも来て貰えそうもない。友達の両親が仕方なく泊めてくれるっていうから、お言葉に甘えることにしたよ。だから、今日は家に戻らない。夕飯は明日の朝にでも食べるよ』
 台風が上陸し、雨風が予報通りに強まる日暮れ時に、そんな電話を自宅に一本入れればいいのだ。
「大丈夫よ。分かっているわ」
 ふと窓を見やると、ぼつぼつと大粒の雨が窓ガラスを嬲りはじめた。まるで、彼が店に滑り込むのを見計らったように。風も強まりだしたようで、まだ葉の青いイロハモミジが激しく枝を揺らしている。
 本当に彼が私の憶測した通りに狡猾な計画を練って家を飛び出したとは、彼のイメージからだと考えにくい。
 事実はもっと打算的なものかもしれない。
 しかし、何にせよ篠崎君の唐突な訪問は、私の本能に、直感に、こう伝えるのだ。
 篠崎君は私に好意を持っている、――否、篠崎君は私が自分に好意があると思い込んでいると。
 もっと有り体にいえば、彼は私のことを頼み込めば、セックスをさせてくれる相手だと断定している。
 それはいうなれば、私が彼と出会ってからの二ヶ月間に試みたアプローチの成果であった。
 私は彼へと執拗にボディータッチをし、意味深な言葉を耳元で囁いた。他の客に悟られぬように、こっそりと何度も。こんな簡単な方法で、純真無垢な男子高校生はいとも簡単に手籠めにできてしまうのである。
 現状は全て私の思惑通りであり、また、理想通りのシチュエーションでもあった。
 しゃがんだ体勢のままで首を後ろへと回すと、彼の股間が逞しくなっているのが、ジーンズのデニム越しからでも分かった。その膨らみを凝視しなくても、彼の欲望が匂いとなって、私の元まで漂っている。
「我慢しなくてもいいのよ」
 上目遣いで彼の理知的な瞳へと語りかけると、堰を切ったように素早く体勢を崩して膝を床につけ、私を背後から力強く抱きしめた。
 私は首の位置を元に戻して、彼から顔を隠してほくそ笑む。
「汗掻いたでしょう。お風呂に入りましょうか。一緒に」
「…はい」
 顔を私の背中に埋めたまま、彼は消え入りそうな声で呟くと、抱き寄せる両腕をゆるゆると解いて立ち上がった。彼の骨張った手をとり、二階の住居スペースへと移動する。繋いだ彼の手からはうっすらと汗が滲み、掌が緊張で脈打っていた。
「階段狭いから気をつけてね」
 窮屈な三和土で靴を乱雑に脱ぎ散らかした後、手を握ったまま、無理な体勢で一列になって階段を上がっていく。その間、篠崎君は足下が心許ないのか、それとも紅潮した顔を隠すためか、ずっと俯いたままでいた。
 階段を上り切ると狭い廊下に辿り着く。左手にはノブのついた扉が規則正しく一定の距離を守って、三つ整列している。
 廊下の突き当たりには木製の引き戸があり、そこを開けると脱衣所とバスルームがある。引き戸の手前で廊下は鉤の手になっていて、左手にそこを曲がるとトイレの入口がある。
「この部屋は」
 狭い廊下を進む際、篠崎君は急に立ち止まった。
 階段に程近い左手に並ぶドアの一つを、空いた左手で指さして訊ねる。まるで、拗ねた子供のように俯き加減で。これは照れ隠しの一環なのだろうか。私はその質問の真意を計り兼ねた。
 三つの扉は手前から、客間、キッチンを併用したリビング、寝室となっている。
 リビングと寝室は室内にそれぞれを繋ぐ扉があり、廊下を介さずとも相互間の移動が可能な間取りとなっている。客間はほとんど使われる機会がなく、たまに入ると埃っぽくて参ってしまう。篠崎君が指さしたのは一番手前にある客間へ通ずるドアだった。
「そこは客間よ。あるのはソファーとテーブルくらいで、珍しいものは特にないわ」
「中をのぞいてもいいですか」
「…ええ。別に、かまわないけど」
 要求を不承不承に了承してやると、繋いでいた篠崎君の手にグッと力が入るのを感じた。その段になって、ようやっと私にも、彼の意図するところが正しい形で汲み取られた。
 彼は自らの若く激しいリビドーを抑え切れなかったのだ。
 篠崎君の手がドアノブを捻ると、私の手は力尽くにひっぱられ、身体はあっという間に分厚いカーテンが窓を遮る真っ暗な客間へと吸い込まれてしまった。
 そして、扉脇の壁と背中合わせにされる形で、強引に壁際へと追い込まれる。
 落とし穴にはまったように突如暗転した視界と、背中を走る鈍痛による戸惑いから、彼へと糾弾する間も与えられず、彼は私の唇を貪るように奪う。
 入口の扉が錆びた蝶番が鈍い唸り声を上げたあと、バタンと閉まると、視界から一切の光が失われた。
 眉が、目が、意図もせずに吊り上がるのが分かった。もし鏡を覗けば、般若面のように恐ろしい顔つきの自分と目が合うに違いない。
 胃はムカつき始め、戸惑いは明確な破壊願望となって頭を掻き乱す。彼のティーシャツの裾から両手を突っ込み入れ、背中に爪を立てて思いっきり引っ掻いて十本のミミズ腫れを残してやりたい衝動に駆られた。
 ああ、これだ。この感覚こそが私の望んでいたものだ。重力に逆らって首筋を勢いよく上昇する血流に悦びを覚える。
 滅多に姿を現さない、私の中の破壊願望が叫ぶ。
『よくもやってくれたな少年よ!』
『勘違いをしてくれるな、犯すのはお前ではなく私の方だ!』
 理知的な瞳を持った、高尚な人間である素敵な彼。
 私という穴に墜ちたその憐れな彼は、これから完膚なきまで木っ端微塵に破壊壊される。他でもない、この私の手によって。
「ちょ、ちょっと、待って」
 私は宙空で爪を立てていた両手を一度脱力させた後、熱い口づけを交わしながら夢中で私の身体をまさぐる篠崎君を、努めてやんわりとした手つきで突き放した。
 解放された唇を動かして、彼の暴走を制する。
「ベッドじゃなきゃ、いや。こっちよ」
 暗闇の中を手探りで彼の右腕を掴み、ドアノブに手をかける。半ば強引に篠崎君を廊下へと連れだし、隣の扉まで駆けた。
 私は廊下を進む間、険しい表情を解いて、笑顔を繕う努力をした。しかし、その試みは上手くいきそうもない。つり上がった眉が硬直して元に戻らない。
 寝室に入るや否や、私は電灯のスイッチには手を伸ばさずに、勘に頼ってベッドへと一直線に向かった。光源が無い場所であれば、どんな醜悪な顔をしていたところで闇に隠れるため関係ない。
 スプリングが軋む音が、大きく室内に響く。
 カーテンが閉まった窓越しに、ごろごろという雷鳴が遠くから届いた。
 屋根や窓を打つ雨音も継続して聞こえる。それらに紛れて、私と篠崎君の吐息と体液が交わる下品な音が紛れ込む。
 視界の存在しない暗闇の中で、それらの混沌とした音と、彼の体温や汗ばむ肌の感触、体臭、味が際だった。
 ――彼に抱かれた女が私の他に存在することを看破したのは、ベッドになだれ込んで間もなくのことだった。
 キスをしながらキャミソールを脱がす彼の手つきに、妙に小慣れた印象を受けたのがきっかけだった。
 そして、パンツのジッパーを下ろし、下着に手を突っ込むと、数秒もせずに彼は濡れている私の中へと二本の指を押し込む。
 私の経験則上、女性経験のない男が、女からの施しもなく性急にここまでの手順を踏むというのは不自然なことだった。
 女体へと初めて触れる男達は総じて、未知の精密機械を扱うように、探り探りになっておぼつかない様子を見せるのである。
 インターネットの普及でアダルトビデオが誰でも手頃に視聴できる時代なったとはいえ、イメージトレーニングでここまでスムーズにことを進められるようにはなるまい。
 生意気にも目前の少年は、確実に私ではない他の女を抱き、実践によって小慣れていた。
 その事実に気付いてしまった瞬間から、沸騰していた血液の熱が急速に冷めていった。
 同時に、冷えていく頭の中で燃え上がる感情もあった。私の中の破壊願望は『よくも騙してくれたな』と、怒りに満ちた酷笑を浮かべ始めたのだ。
 篠崎君に対する破壊衝動は、新たに冷徹さを包含させて高まっていく。
 ベッドの縁に腰を掛けたまま、お互い服を脱がせ終わり、下着も含めた全ての衣類を折りたたみもせずにベッドの脇へと放り込んだタイミングを見計らって、私は彼を押し倒した。
 すぐさま馬乗りになり、彼を私の中へと招き入れる。そして、そのまま激しく上下に腰を振ると、ものの数秒で彼は果ててしまった。
 精液が私の中に注がれた後も、私は彼を放しはしない。舌を絡めた熱いキスを交わしてから、乳首を舐めてやると、彼のペニスは直ぐに復活した。
 膣内で彼が膨張して、強固さを取り戻すと、私は間髪を入れずにまた腰を振る。
 二度目は彼の精液が潤滑剤となり、ぬるりとした肌触りが先ほどとは異なった快感を生じていた。
 彼が身を震わせ、二度目の射精をしたのは、再開してわずか数分後だった。
 彼は既に陥落していた。体はぐったりとしていて、これ以上性行為を続けたいというパトスは発せられていないようだった。
 だが、私は彼の休息など許しはしない。キスをして、自分の乳房を彼の身体に擦り付け、色欲を奮い立たせようとした。
 すると疲労困憊な様子の彼とは裏腹に、再び下半身はむくむくと膨張していく。
 それを確認した私は、追い打ちをかけるように、これまでにない暴力的な勢いで腰を振った。
 肌と肌がぶつかりあう甲高い音が室内を支配する。
 篠崎君から漏れる吐息は、いつしか呻き声へと変わっていた。本来快楽である筈の性行為が、すでに苦行になっている。
 枯れ果てた精液を絞り出そうと、睾丸が悲鳴を上げているのだろう。三度目の痙攣をしたとき、事切れたように彼の全身が脱力した。
「もう、もう」
 彼の口元に耳を当てると、そうブツブツと呟いていた。私はそれを彼からの降伏宣言とみなし、股間の上で馬乗りにしていた腰を上げて、長い時間拘束していた篠崎君を解放する。
 労いとばかりに汗の浮かぶ篠崎君のおでこへとキスをしてやり、それから私は股の下に片手を添えて溢れる精液をベッドの上や床に落ちないように注意しながら、暗闇に支配された寝室を抜け出して、バスルームへと駆けこんだ。
 シャワーを浴びながら自分の膣へと指を押し込み、精液を掻き出す途中、私は鏡に映る自分に、ふと疑問を投げかけた。
「貴女はいったい何者なの?」
 鏡に映る顔は底意地の悪そうな笑みを浮かべていた。
 いったい、何がそんなに可笑しいのだろう。
 彼女は高校生男児を誘惑してセックスしたことに、なんの喜びを見いだしたというのだろう。
 破壊衝動はとうに治まっていた。興奮はすでに跡形もなく消え去り、冷え切った頭の片隅には後悔すら浮かんでいる。
 それでも、鏡に映る自分はどういう訳か笑っている。
 その紛れもない事実が奇妙で、空恐ろしかった。
 まるで、自分の影に顔がついているのを視界に捕らえたような、背筋が凍る光景である。
「篠崎君とやったことがそんなに嬉しい?」
 私が問いかけると、冷笑を浮かべたまま口を動かすことなく、彼女は私へと声を返してくる。
『わかってるくせに』
 曖昧な返事だった。しかし、私はその答えの真意を追及することはしない。
 わざわざ訊ねる必要もなく、彼女は次の言葉を口にしようとしていた。私は予言者の如く、その気配を感知することができる。
 どころか、彼女から発せられようとしているその言葉の、一字一句までを詳細に予測できた。
 答え合わせをするように、私は彼女の言葉の続きを口にする。
「だって、私は貴女だもの」
 鏡の向こうに居る女は、示し合わせたようにぴったりと私とリップシンクした。
 友達のように私たちはその偶然を笑った。クツクツと喉を鳴らして。
 鏡の中に潜む色彩を持った私の影は、実に愉快そうに長い間笑っていた。
 シャワーを済ませてから体をタオルで拭きながら寝室に戻り、部屋の灯りを点けると、篠崎君はシングルベッドに裸で大の字になって泥のようになって眠っていた。
 私はそのあられのない姿に、心が満たされる思いだった。
 彼は壊れた。性欲に溺れ、私の意図に気付かずまんまと騙され、おいそれと私というツマラヌ女に体を委ねてしまった。
 汗だくで、泥のように眠る彼は、猿も同然である。
 私の中の高尚で素敵なイメージを持つ彼は、崩れ落ち、塵となって風に舞い、消えたのだ。
「ざまあみろ」
 口中で音を発さぬように囁いて、私はベッド脇の衣服を回収すると小躍りしそうになりながら、軽快な足取りで、眠を取るために隣室であるリビングのソファーへと向かった。

 四

「こんにちは。アジサイが綺麗に咲いていますね」
 苺ちゃんこと荊来苺は、ここ喫茶カモミールで生前オーナーを勤めていた荊来林檎の孫娘だった。
 元々この店は苺ちゃんの祖母である林檎さんが経営していたお店であり、私がここに勤め始めたときは只の一従業員として働く身に過ぎなかった。それが、林檎さんが糖尿病で亡くなったのを期に経営権が苺ちゃんの父親に後継され、縁があって私はここの雇われオーナーに抜擢されたのだ。
 林檎さんが亡くなった時、苺ちゃんのお父様はこの喫茶店を畳むつもりだったらしいのだが、苺ちゃんが必死に説得してそれを阻止し、現在に至っている。
 彼女が店の継続を訴えなければ、私は職を失って路頭に迷っていたかもしれない。謂わば、苺ちゃんは私にとって恩人でもあるのだ。
「いらっしゃい、苺ちゃん。待っていたわ」
 苺ちゃんが店の扉を開けてからカウンター席へと歩み寄る際、グレープフルーツのジャムを煮る底の深い鍋越しに、ヨタヨタとした足取りで歩く横顔と、風船でも詰め込んだように膨らんだお腹を視界の端で捉えた。
 カウンター席の銀光りするポールで床に固定された丸椅子に座る際、彼女はたすき掛けをしていた桃色のポーチから、一冊の文庫本を取り出してテーブルの上にぽそりと置く。それから、足下にあるナイロンで編まれた茶色いバスケットへとポーチを放り込んだ。
 文庫本の表紙には、背の青い鳥が赤い果物を啄むイラストが描かれており、控えめな文字で妊娠カレンダーと銘打ってあった。私は読んだことのない本である。
「お腹、大きくなったわね。もう、六ヶ月だっけ」
「はい。最近は寝ているときに、この子が不意にお腹を蹴ったりするものですから、寝不足でしょうがないんです」
 笑顔を浮かべる彼女の顔には、大きな隈があった。
 私は、先程ちらりと見た、彼女の膨らんだお腹について想起する。
 小柄で痩せ細った体に対して、胸回りより三倍以上に膨らんだウエスト。不健康な印象を受ける華奢な身体にはあまりにも不釣合だった。腹部に膿んだ異常に大きな腫瘍のようにみえて痛々しい。
 あどけなさの残る苺ちゃんの小動物然とした顔が、さらにその異質さを際立たせている。
 誕生日を迎えた本日をもっても十八歳という若さなのだから、彼女がそのどこかグロテスクな異彩さを放つのも無理はないのかも知れない。十八といえば、去年の篠崎君と同じ年なのだ。
 現代社会において、女子高校生の妊娠はあまりにも不純で、非常識で、非道徳的で、そして、なにより時期尚早過ぎた。
 事実、彼女は奇異たる衆目に耐えきれずに、所属していた高校を自主退学にまで追い込まれた。少し考えれば、彼女がそういった不幸な道を辿ることは火を見るよりだった。
 苺ちゃんだって妊娠が発覚した際にはそれをきちんと理解していたようだ。だからこそ、お腹の子を産むことを決断したと告げられたときは大層驚いた。
 勿論、彼女の両親は出産に猛反対したらしく、擦った揉んだの大喧嘩があったと聞かされている。
 私も本心では子供は堕ろすべきだと感じていた。しかし、私は苺ちゃんに対して、説法を垂れられるような立場になかった。
 彼女が妊娠した発端が私の軽薄な我が儘に起因していたからだ。
「じゃあ、苺ちゃんの安眠を願って、リラックス効果のあるカモミールを淹れましょうか」
「えっ、いいんですか?」
「大袈裟ね。ウチの看板メニューなんだから、一日に何杯淹れているか分からないくらいよ」
「だって、私にはまだ一度も出したことがなかったじゃないですか」
「そうだっけ、意外ねえ」
 言いながら、私はコンロ上のジャムを煮る鍋の隣に置いた薬缶に冷蔵庫から持ち出したミネラルウォーターを注いでから火をかける。
 苺ちゃんは口数が多い方ではない。お湯が沸くのを待つ間、しばし沈黙が訪れた。
 やがて、彼女は文庫本を広げはじめ、私は銀の薬缶に歪んで移る自分へと焦点合わぬ視線を向けながら物思いに耽った。
 回想の内容はやはり、苺ちゃんと篠崎君の関係についてだった。

 五

 あの嵐の日以来、篠崎君はことある毎に私へと、遠回しに性行為をしようと誘うようになった。
 私にはその気はなく、彼とのセックスはあの一度切りだと踏切りをつけていた。私の中で既に壊れてしまった彼には、もう興味など沸くはずもないのだ。
 私の篠崎君を欲する心は、私の中で瓦解した彼と共に風化していた。
 だが、何度断っても篠崎君はしつこく私に言い寄ることを止めなかった。考えた末に、私が彼の意識を自分から逸らすためのスケープゴートに選び出したのが苺ちゃんだった。
 決して、悪意でそんな役回りを押しつけたわけではない。純粋に二人は気が合いそうだと思ったのだ。
 篠崎君と苺ちゃんには特別な共通点があった。
 苺ちゃんは篠崎君と同じく、人とは違う魅力的な瞳の持ち主であった。祖母譲りの特徴的な瞳で、闇夜を連想させるような漆黒色をしており、この世の汚れを知らぬような透明さにいつも潤んでいる。
 どれだけ悲惨な終末を世界が迎えても、彼女だけが最期まで正気を保つであろうなどと、そんな馬鹿げたことを本気で思わせるような、そういう不思議な目である。
 年も一つしか離れていない。きっとお似合いでもあると考えた。今になって振り返れば、それは実に浅はかな見識だったのだが。
 この店のウッドデッキで苺ちゃんと篠崎君を互いに邂逅させた時、私はアイスのジャスミンティーを二人にごちそうした。
 その日は晴れ渡った九月初旬の土曜日であった。風は柔らかく、空は澄み渡り、気温もすこし暖かいくらいで、とても過ごしやすい気候だった。
 ウッドデッキの縁にある手摺りの傍には、満開の花をつけたサルスベリの枝と、咲き頃を迎えた彼岸花の群れが佇み揺れているのがうかがえた。
 遠くの海も波が反射してキラキラと光り、その中で白い船が何隻かぽつぽつと浮かんでいる。
 眼前に広がる長閑な景色は、人を半強制的に上機嫌にさせる魔法がかけられていた。だが、そんな素晴らしい景色を満喫する余裕さえも、当のうら若き男女には生じないようで、二人掛けのガーデンテーブルには緊張感が漂っていた。
 初対面ということもあって、如何にもぎこちない空気が流れていた。しかし、苺ちゃんはともかく、篠崎君は人見知りをするような性格でもない。それにも関わらず、ここまでの気まずい状況に陥っているのは、この状況事態がサプライズに近い不意打ちのシチュエーションであったからだ。
 二人はこの日、私という共通の知り合いから説明もなしに唐突に呼び出され、来店してきた。
 訳も分からずにほいほい来てみれば、唐突になんの面識のない人間と相席にされてしまったのだから、二人とも大層面食らったことだろう。
 狡猾極まりない私的な企みよって設定した、奇天烈怪々なドッキリランデブー作戦は、開始から三十分が経過しても二人の間の緊張ムードが一向に緩和される気配をみせず、失敗したかに思われた。
 危機感を覚え、痺れを切らした私はジャスミンティーのおかわりと共に、話題の提供にと二人とも読書が趣味である旨を伝えてみた。すると、たちどころに沈黙は解消され、会話は盛り上がり、帰り際には連絡先を交換し合う程に意気投合した。
 私の底企は無事に成功を収めたのだ。結果、狙い通りに篠崎君からの性行為への誘いはめっきりなくなった。店を訪れる頻度も徐々に減っていった。来店する時も、必ず苺ちゃんが同伴するようになった。
 二人の仲は、私の目の届かないところでも進展していったようで、二人きりで様々な場所へと出かけ、共通の記憶を紡いでいった。
 二人の絆は私が隙入る余地のないほどに、親密になっていき、店内で繰り広げられる楽しそうな会話は、私とっては遠い星の宇宙人が紡ぐ言語のように感じられた。
 篠崎君は私と過ごしたあの嵐の日の記憶など無かったかのように振る舞い、それを望んでいた筈の私は、トイレの手洗い場に忘れられたハンカチにでもなったような気分に陥った。
 使用済みのカップを磨きながらカウンター席で談笑する二人をにこやかに眺めながら、まるで矛盾していると私は何度も自嘲した。
 順調に見えた苺ちゃんと篠崎君の関係性が一変したのは、今年に入って間もない一月の下旬のことだった。
 苺ちゃんの妊娠が発覚したのだ。
 以来、篠崎君は苺ちゃんとの交流を避けるようになり、最期に店で二人が一緒に居た姿をみたのは、苺ちゃんが妊娠を篠崎君に伝えた時だった。
 彼はその際、余命宣告でも受けたかのように沈んだ面持ちで、ただ黙って頷くばかりでいた。その後、私は篠崎君とは顔を合わせることもなくなったが、苺ちゃんから又聞きした情報によれば、彼は予定通り都内の大学へと入学して、現在は東京で暮らしているようだった。
 つまり彼は、自分の子を身籠もった女を、知らぬ顔で置き去りにしたのである。
 怪我の功名というべきか、妊娠は早い段階で発覚した。
 苺ちゃんは中絶を選択可能な期間を多く与えられた。人生における重要な選択の時間、正常の生活に戻るための決断を下すための猶予期間はたっぷりとあった。
 しかし、彼女はその権利を頑なに固辞した。そして、妊娠六ヶ月を過ぎた今、中絶という退路は断たれ、彼女は後戻りできない状態になった。
 ピーッと薬缶が悲鳴を上げて、私は唐突に我に返る。

 六

「そうだ。匂いでもう伝わっていると思うけど、リクエストのグレープフルーツジャムも今作っているところよ。指定通り、ちゃんとアメリカ産のものを使っているわ」
「本当だ。グレープフルーツの香りがします。なんかいい匂いするなと思っていました。そういえば、頼んでましたっけ。私なんかのためにわざわざ、有り難う御座います」
「まあね。せっかくの誕生日だもの。リクエストに応えるのは当然よ。でも、苺ちゃんがグレープフルーツ好きなんて、知らなかったわ」
「えっと、実はその。別に好物というわけではないんです。ただ、この小説に登場するので、食べてみたくなって」
 彼女は読んでいた文庫本を広げたまま掲げて示す。
「あら、そうだったの。私も読んでみようかしら、その小説」
「それなら、これを差し上げます。あたしはもう何度も読み返しているので」
「まあ、有り難う。まさか、誕生日でもない私が、逆にプレゼントを渡されるなんてね」
 カウンター越しに文庫本を受け取ると、一瞥して、手垢にまみれた薄汚さに辟易した。どうやら、古本屋で購入した中古品らしい。裏側に店名の書かれた値札が張られていた。
 私はキッチンスペースの奥へと文庫本を運び、音を立てぬようにして静かにゴミ箱へと沈めた。ゴミ箱は客に見えぬようにカウンターからは死角になる場所に設置している。
 脳裏では新品をネット通販で購入しようと算段していたが、元居た場所に戻る時にはタイトルが何だったか忘れてしまっていた。
 コンロの前に立つと、薬缶が丁度良い量の湯気を噴いていたので、カモミールを淹れる準備に取りかかる。
 ポットにお湯を注ぎ、温まった頃合いを見計らい、お湯を捨てる。ドライハーブを三杯分適量に投入し、再びポットにお湯を入れた。
 かき混ぜながら何度か蓋を開けてお茶の色味を確認し、一番美味しくなる濃さで手を止める。
 カウンター席側に移動して、苺ちゃんの前でこし器付きのポットから、ティーソーサーにのせた白いカップへとカモミールを注ぐ。
「どうぞ、お嬢様。当店自慢のハーブティーで御座います」
 私は漆黒の燕尾服を纏ったクールな召使いをイメージして右手を腹部に当ててお辞儀をしてみせた。
「ふむ、よきにはからえ」
「お嬢様、それはなにか違います」
 うふふと笑ってから、「なにも違わぬ」と態と低い声を作って呟くと、彼女は淹れ立てのお茶を口に含んだ。
 一瞬熱そうに目を細めたが、すぐさま、その目は大きく見開かれる。
「このカモミールティー、本当に美味しいですね」
「ありがとう。スコーンも焼いてあるから、今から、あの熱々のジャムを付けて食べましょうか」
「そいつは、僥倖の極みです」
 言葉通り、目を瞑って幸福そうな笑みを浮かべる苺ちゃん。その表情がまるで小さな子供のようで、足をバタつかせて座る彼女のお腹の膨らみがいっそう異様に映った。
 キッチンスペースのオーブンから、しゃがんで焼きあがったスコーンをペーパーから剥がして、白い大皿に移し替えている際、しみじみとした口調で苺ちゃんはこう切り出した。
「でも良かったです。つつじさんからカモミールティーを淹れて貰えて」
 私はその言葉の意味をどう捉えていいか分からず、返答できずに暫し沈黙した。
 オーブンの中身をすべて皿にのせ替え、二等辺三角形のスコーンが並ぶ大皿を再びカウンターを回り込んで苺ちゃんの元へと運ぶと、彼女はチョコレートチップの練り込まれた甘い香りを漂わせるそれには目もくれずにこう続ける。
「つつじさんが、私にカモミールティーを淹れてくれないのは、もしかしたら華生君が関係しているんじゃないかと要らぬ勘ぐりをしていました。どうやら、それは杞憂だったようですね」
「…それは、どういう意味かしら」
「いえ。別段深い意味はありません。ただ、二人の良き思いでの品を、あたしに出すのは躊躇われるのかなって。華生君はことあるごとに、つつじさんとの思い出を話す際、この美味しいカモミールティーをごちそうしてもらったと嬉しそうに話していましたから」
「あはは、なにそれ。まるで私が、華生君にご執心みたいな言い方じゃない。安心して、誰も苺ちゃんの王子様を攫ったりしないわよ」
「そうですよね。要らなくなったからと人に押しつけたものを、わざわざ、奪い返したりなんかしないですよね」
 柔らかい笑みを湛えたまま、苺ちゃんはそんな攻撃的な言葉を口にした。
 温厚な性格をした彼女には似つかわしくない不穏な台詞であり、それが殊更に彼女の台詞から狂気に染みたものを感じさせる。
 私は不意に背後から羽交い締めにされて、ナイフを首筋に当てられたような気分に貶められた。
 なにより度肝を抜かれたのは、私の卑しい企みを彼女がきっぱりと的確に言い当てたことである。
 私はその狡猾な底企を悟られることを恐れていたのだと、呆れたことにこの時になって初めて自覚したのだった。
「どうしたの、苺ちゃん。もしかして、マリッジブルーかしら。疲れてない」
 誤魔化すように私が切り出した私の言葉に、苺ちゃんは苦笑を浮かべながら首を横に振った。
「あたしたちは結婚しません。それについては既に二人で話し合いましたので」
「貴女、本気なの。苺ちゃんはお腹の子を産むって決めたのよね」
「あたしがこの子を産むのは、華生君のためではないので」
「じゃあ、誰のために産むっていうのかしら」
 苛立ちを含んだ刺々しい口調になってしまった。醜悪な本心を突かれたことで、私は動揺から気分が昂揚していた。
 そんな平静を失った私からの質問は無視をして、苺ちゃんは手元のカップを一気に呷ると笑顔のまま話題を変えた。
「ファンネルって、この店、置いていますか」
 彼女はハーブティーの一種の名を口にした。あまりの突拍子のなさに、一瞬私は口ごもる。
「…いいえ、一時期ウチでも扱っていたのだけれど、需要があまり無かったから、今は置いていないわ。でも、そんなマイナーな品種をよく知っているわね」
「ええ。だってあたし、おばあちゃんの孫ですから」
 ご冗談をと、私は胸中で肩を竦めた。そんなはずはないのだ。だって、彼女の祖母はそこまでハーブティーに詳しいように見えなかった。

 七

 そもそも、私がここで働き出した時、喫茶カモミールは一日に三人客が来れば集客率は比較的に多いという、定常的に終日閑古鳥が鳴きっぱなしの状況に陥っていた。
 一従業員という立場にあっても、経営は帳簿をつけるまでもなく赤字だと察せられる。どう換算したって、月の売り上げが私の給料よりも低いのだから、目も当てられない。
「いいの、いいの。趣味でやってるようなものなんだから。つつじちゃんはそんなこと気にしないでいいのよ」
 そうは言われても、気にしないでというのは無理な話であった。自分の働きが一定以上の売り上げを献上できないという事実がある限り、私はただの給料泥棒と蔑まれても文句が言えない立場にある。そんな、状況に甘んじるのは心苦しいばかりである。
 経営は難航していたものの、喫茶カモミールの店構えは立派なものであった。
 大きな丸太を横向きに積んだログハウス造りの外観はいわずもがな、一階の厨房内には一辺十センチほどの正方形でスペースを細かく区切った大きな戸棚がある。
 その正方形に区切られたスペースには乾燥茶葉を保存する瓶を横向きに寝かせて収納できるようになっている。その大きな戸棚は四十種以上の茶葉を保存できるほどのキャパシタンスを誇っていた。
 だが、実際に当時収められた瓶はその二割を切っており、殆どの仕切りが永久欠番とばかりに留守の状態だった。
 空白のスペースを指で撫でると埃が付着し、その有様が集客状況を揶揄しているように見えた。
 さらにお客には目が届かない、長らく空き家となっていたという二階の居住スペースを、わざわざ職員として私を迎い入れる条件作りために、内装をリフォームまでして無償で貸し出すという羽振りの良さだから始末に負えない。
 そんな内外ひっくるめて立派な店構えが、過疎な店内を一層侘びしくさせた。
 喫茶店経営という商売を持続させるためだというのに、利益の還元を考慮せずに人件費や店内の改築による高額な出費をかさむ姿勢は、明らかに趣味の範疇を逸脱している。
 享楽的な感覚よりも、もっと別の激しい病的な執着心がそこには隠れているような気がした。
 私はその正体を何度も探ろうと模索したが、その度に林檎さんはお決まりの「いいの、いいの」を繰り返して、口を割ろうとしなかった。
 だが、林檎さんの一見破滅的とも思える出費というのは結果としては有意義な投資とも言えた。
 その破格的な高待遇は、私の責任感と商売好きな一面を焚きつけることとなったからだ。

 八

 人生において苦難な逆境に立ち向かうことほど、現実的でありながら、尚且つ劇的な場面はない。
 私は胸中で誓った。林檎さんの私へと投資は、金額を倍にして還元してくれてやると。
 そう決断してから、まず私は店の来客数を増やす得策を模索した。
 第一案として考えたのが、店に特色を着けることだった。もとより、喫茶カモミールはコーヒーよりも、カモミールティーとジャスミンティーを基軸としたハーブティーを主だったドリンクメニューにしていたのである。
 コーヒーのメニューがブレンドアメリカンの二種類しかないのに対して、ハーブティーのメニューはカモミールジャスミンティー、ローズマリー、ペパーミント、ジンジャーの五種類があった。
 私はこのハーブティーに特化したメニューに目を付け、この特色をもっと強調しようと考える。
 従来利用していた得意先の問屋が世界中の様々な茶葉を取り扱っていることを知った私は、林檎さんの承諾を得た後、カタログを貰って店に仕入れる茶葉の種類を三十種にまで拡大した。
 空欄を多く残していた茶葉の瓶を収納する厨房の戸棚がギッシリと埋まって、本来の存在感を誇らしげに露わにする。
 メニュー拡大によって店の特色を色濃くした後、私はインターネットによる宣伝活動へと目を付ける。
 どんなに素晴らしい店でも、大衆に認知されなければ、誰も足を運ぶことはない。
 そうでなくても、ここは立地条件が非常に芳しくないのだ。
 喫茶カモミールは、繁華街は疎か、人里離れた郊外位置する。
 半径十キロ圏内には民家すら殆ど存在しない。海沿いの車道の途中には小さな看板があるだけで、小高い丘を登るための狭い入口の前を車で横切っても、看板自体に気付かない人だっているぐらいだ。
 もし看板を見つけられたとしても、店舗はそこから目視で確認することは出来ず、また入口となる石段は鬱蒼とした竹林の間にひっそりと隠れるように佇んでいる。
 さらに、人一人が通るのがやっとな幅のその石段がログハウスの店舗へと伸びる様は、目が回りそうになるほど途方もなく感じる。
 その道のりに面くらい、敷居を高く感じる人だって大勢居るに違いない。
 となると、実物を見るより先に店の存在を認知させて、事前に敷居を取っ払うという方法が、この店での集客において非常に効果的に思えた。そういう観点から、ネットでの宣伝活動は重要だった。
 私は集客成功の如何はすべてをここにあると踏み、それなりの気概を持って取り組むことにした。
 だが、ことはそう単純ではない。大々的な客寄せを験するに際して、二律背反的に懸念すべき壁があったのだ。
 それは集客しようにも、店自体のキャパシティはさほど広いわけではないということだ。
 座席数自体はそこまで問題はない。
 店内にはカウンター席が六つと、四人掛けテーブルが四つ。ウッドデッキのテラスに二人掛けテーブルが二つ。計二十六席になる。従業員は林檎さんが居たものの、ご老体であり、キビキビと動けるわけではない。
 なので、接客に関しては実質ほとんど一人になる。
 それでも、出来上がったサンドイッチや茹で上げるだけの麺類が主となる軽食と、一人一杯のお茶を淹れるくらいなら、満員の状態でもなんとか従業員一人で事足りた。
 のっぴきならないのは、丘の麓にある駐車場の狭さである。駐車場は猫の額ほどの広さで、車が四台しか停められない。
 インターネットは世界中どこからでも閲覧できる媒体だ。そこで宣伝したからには、集まる客は徒歩圏外に居住する人間がほとんどになるはずだ。
 駐車場の拡大は更なる出資を要するので避けるべきであろう。
 そんなバックホーンもあり、インターネット上の宣伝には多すぎず、少なすぎない適度な集客という課題が付属した。
 その難しい目論見に際して、私が策略したのが短所を長所にすり替えることだった。

 九

 就職活動に伴う面接試験の対策をレクチャーする啓発本には、「あなたの長所と短所をお答えください」という面接官からの質問に対して、短所の部分をどのように上手く返答するかという項目が、必ずといって良いほど載っている。
 たとえば、見るからに気の小さくて臆病そうな人物の場合はこう答える。
「私は物心ついた頃から心配性な性格で、テストの答案なども回収ぎりぎりまで間違いがないか何度も確認してしまいます」
 これは、気が小さいという自らの短所を心配性と言い換え、その性質を持っているが故にミスを恐れて入念に物事を確認する癖があると主張しているのだ。
 とどのつまり、書類作成業務に当たってはミスが少ないですよと婉曲にもアピールしているわけである。
 事実ミスがないかはさておきながら。
 私はネット上の宣伝をするに当たってこの手法を採用し、応用した。
 登ることを避けることが不可能な決して短くない石段。
 人里離れた立地条件の悪さ。
 店舗と駐車場の狭さ。
 それらを喫茶カモミールの難点から、持ち味へとすり替えようと画策した。
 短所を明記せずに隠蔽するという選択肢もあっただろう。
 だが、口コミによる拡散的な反響を期待するのであれば、メリットのみを伝えて過度な期待を胸に来店させて幻滅されることだけは避けなければなるまい。
 期待外れだの、広告詐欺だのという声が広がって、まったく逆の結果をもたらす恐れだってある。
 デメリットを明記することは、宣伝を目にして店に興味を持った人間をふるいにかけることにはなるだろうが、逆を言えば、店の趣向に合った人間だけが店を訪れることとなる。
 その方が迎い入れる方もやりやすいし、そういった客の方がリピーターになってくれる見込みも幾分か高い気がした。
 具体的な宣伝方法に関しては、ブログを含むホームページの開設と、喫茶カモミール名義で作ったアカウントでの各ソーシャルネットワーキングサービスへの投稿を行った。
 私は幸運にも都内で四年ウェブデザイナーをしていた期間があり、ホームページの作成時にはその経験が随分と役立ったものだ。
 しかし、経験値はありながらも、全ての作業が楽勝だったという訳ではない。
 レイアウトのデザイン作成センスには自負があったが、プログラミング技術はほとんど素人に近かったため、足りない知識は参考書やネット上の情報を収集して補う必要があった。
 四苦八苦しながらも、なんとかたっぷり一ヶ月という期間をかけ、自力でホームページを開設にまで至った。
 自画自賛になるが、我ながら悪くない出来である。素人が作成した独特の簡素さはなく、瀟洒で、体面上は整った仕上がりだ。
 ホームページには店で取り扱っている茶葉の効能についての説明とオリジナルブレンドティーの写真や、それらのハーブティーから期待できる美容的な効能について多く書き綴った。
 当店一番の自慢であるウッドデッキに広がる壮観な眺めは、トップページに大きな写真が表示されるようにしている。
 そして、肝心の集客のネックとなり得る要素は次のように敢えてピックアップし、喫茶カモミールの特色に変えた。
 まず長い石段は道中でみられる可憐な花々が織りなす麗しい風景があると取り上げた。
 石段の脇には様々な四季折々に見頃を迎える花や樹木植えられており、これは園芸が趣味である林檎さんによって、元々植えられていたものだ。
 私に名前が分かるのは、チューリップやアネモネ、ガーベラ、アジサイアサガオ、ヒマワリ、ノウゼンカツラ、ヒガンバナ、キキョウ、コスモス、シクラメンなど、誰でも名前は知っている花くらいのものだが、その他にも様々な花が植えてある。
 いつ歩いても、何かの花が彩りを添えていて、その傍らで別の花が役目を終えたようにみすぼらしくも枯れている。
 私は、月に一二度その時々に咲き頃を迎えた花を被写体にした写真のデータをブログに添付した。
 植えてある花々は咲く季節に合わせてブロック毎に固めてあるので、多少カメラを退いても画になる。
 寄りの写真だけでなく、長い石段が店のトレードマークとなるように、花と共に添える形で石段の存在も一緒に誇示した。
 ブログには花の他にも、見窄らしさを感じる薄暗い店内の写真や、どこか寂れた雰囲気を醸す店の外観などの写真も多く添付する。
 また、人里離れた立地、駐車場の狭さも大々的ではないにしろ、しっかりと表記することも忘れない。
 これらの写真や情報を提示することにより、総合的に静寂な雰囲気を湛える隠れ家的な喫茶店であるというイメージの定着を狙った。
 この狙いが上手く働き、騒がしい大人数の友達連れや家族ずれのお客は滅多に来ずに、カップルやお一人様のお客をより多く集めることに見事成功した。
 その成功の裏にはたゆまぬ努力も存在する。
 ホームページを開設しただけでは、お客さんも集まりはしなかった。
 スーパーがチラシ広告を作っても新聞と一緒にポストに折り込まなければ意味を成し得ないのと同じ理屈である。
 なので、店の宣伝用に作成されたホームページの存在をウェブ上で宣伝する必要があった。
 私はホームページのリンクをネット上の様々な場所に点在させた。
 主なリンクの貼付け先は同業者とも呼べる地方の喫茶店が開設するホームページやブログである。
 メールなどで個別に交渉し、自作のバナーを貼り付けてもらった。もちろん交換条件として、こちら側も交渉先である店のリンクをベタベタと複数貼ることになるのだが。
 ウェブ上でリンクを点在させる以外にも、非常に有効な宣伝方法がある。
 それが、大勢の利用者が存在するソーシャルネットワーキングサービスへの書き込みだった。これには覿面な宣伝効果があった。
 プロフィール欄にホームページのリンクを載せたアカウントで、ハーブティーの知識を披露したり、彩り鮮やかなオリジナルブレンドハーブティーを撮った写真を添付すると、忽ちのうちにホームページの来客カウンターは数字を跳ね上げた。
 やがて私は、ホームページのカウンター数に一喜一憂をするような矮小な趣味を持つ人種になり、いつしかウェブ上での宣伝やそれに伴う交流が一種のライフワークに変わっていた。
 他店のブログを訪問して記事にコメントを残し合ったり、勝手にそこでアップロードされた記事を読んで刺激を受けたりもした。
 他店から真似できるところは真似して、更なる店のイメージアップを図る。
 そんな地道な活動が続いていたある日、ついに旅行雑誌から取材のオファーがあった。
 一冊の雑誌に取り上げられると、数珠繋ぎに二つ三つめのオファーが重なった。いつしか地元の観光雑誌などでは必ず紹介されるようになり、今でも月に一度ほどのペースでインターネット上や紙面上での記事掲載許可を申し込む旨のメッセージがメールにて送られてくる。
 かくして集客は軌道に乗り、晴れて赤字経営からの脱却に成功した。
 しかし、後遺症も残り、店の集客が軌道に乗った今でも、私は毎晩夕食や風呂を済ませた後に、パソコンやスマートフォンと長時間にらめっこをする習慣が抜けずにいる。
 そんなこんなで、火の車だったこの店を赤字経営から救ったのは、他でもない私であった。
 そんな背景もあって私は林檎さんの喫茶店の経営において、ありとあらゆる面で見下していた。
 ハーブティーの種類だって、きっと後から勉強しだした私よりも、知識は疎いものだと高を括っていた。
 現に、私がここを勤め始めた当時、この店はたった五種類ものハーブティーを扱っていただけであった。
 そのメニューから外れたお茶の知識が林檎さんにあるなどと、誰が信じられようか。

 十

「林檎さん、そんなにハーブティーに詳しかったのね」
 口からの出任せだろうと腹の底では蔑みながらも、苺ちゃんへと私は一応そう訊ねる。
 しかし、予想に反して、彼女は俄に信じがたい事柄を語り始めた。
「ええ、祖父が亡くなる前は、そこの棚から溢れる程の茶葉がこの店には置いてありましたから」
「…それは、初耳だわ」
 鍋の火を止めたジャムが冷めていくことも忘れて、私は苺ちゃんの隣の席に腰掛けた。苺ちゃんは、丸イスを回転させて、私へと向き直り、どこか真剣な面もちで再び口を開く。
「この店が利用している問屋業者は、祖父方の親戚がやっている会社なんですよ。祖父が死んで以来、付き合いは疎遠気味なんですけど。あたしが小さい頃は毎日飲んでも無くならないくらい家に色んなハーブティーの乾燥茶葉の詰め合わせが届いていたものです。そんな経緯もあって、祖母はもちろん、あたしも人よりはハーブティーに詳しい自負があります」
 女性にしても小柄である苺ちゃんの、大きな黒く濡れた瞳が上目遣いで私に語りかけてくる。私はその瞳に吸い込まれるようにして目が離せなくなる。
「あたしが最初に妊娠を報告したとき、つつじさんは安産を助けるお茶だといって、ラズベリーリーフを淹れました。あのお茶は、子宮痙攣作用があるから妊娠初期に飲むのは一般的にタブーなはずです。今飲んでいる、カモミールティーも妊婦に飲ませることはあまり推奨されていませんね」
「あら、詳しいのね。そうだったかしら、半年も前のことはあまり覚えてないわ。…カモミールは、ごめんなさい。うっかり副作用について忘れていたわ」
「さらにラズベリーリーフを出した後に、つつじさんはおかわりにと、特性のブレンドだと偽ってネトルを出しました。あたし内心で笑っちゃいました。先週ごちそうしてもらったお茶も、アロエサフランフキタンポポのダンディオンルート。どれも子宮を刺激を与える作用がありますね」
「苺ちゃんがハーブティーに詳しいことはよく分かったわ。でも、貴女、少し疑心暗鬼になっているんじゃないかしら。何かのお茶と間違えている可能性だってあると思うわよ」
 私の言葉を受けて、苺ちゃんは微笑む。
「そうだ。あたしが妊娠をつつじさんに告げたあの日、凄く良い表情をして、お茶を淹れていたものですから。写真をこっそり撮っていたんです。ほら」
 足下のバスケットからポーチの肩掛けを引っ張りあげて、中のスマートフォンをごそごそと取り出す。
 バッグと同じピンク色をした手帳型ケースの画面を覆う蓋を外し、忙しない手つきでなにやら操作をしてから私へとそれを手渡してきた。
 彼女の意図が掴みきれずに小首を傾げながら画面をのぞき込むと、そこには口の片端をつり上げて醜悪の笑みを浮かべる女が映っていた。
 女は見慣れたキッチンスペースでティーポットの蓋を開けて茶葉の具合を確認している。
「ね、いい笑顔でしょ」
「そうね。とてもよく撮れているわ」
 私はこの写真の中の女が秘めている感情がよく読みとれた。
 絵画の専門家なんかは、モチーフの配置やコントラストを明白にする色遣い、それから筆先のタッチや作者の生い立ちなどから絵画の放つメッセージを読みとるが、私はそんな細やかな分析をするまでもなく被写体の表情から放たれる明確な悪意と殺意が察知できた。
 写真が胸に直接訴えかけてくるとか、そんな各々の感性に基づく主観的ものではない。自覚という誤魔化しようのない感覚が内から直に伝わってくるのだ。
 写真に写る女は間違いなく、紛うことなく、この私であった。
 嵐の日、篠崎君を壊したあの日、シャワールームで話した、あの時の私だった。
「あとでこの写真、私にも送ってくれないかしら」
「いいですよ」
 スマートフォンを苺ちゃんへと返す。
 受け取ると、苺ちゃんは膝に置いたポーチへとそれを突っ込んで、再びポーチをバスケットへと乱暴に放り投げた。
 そして、私へと目線を戻す。『逃さない』とその瞳は語っている。
「狙いはなに。お金が欲しくて、私を脅そうっていうのかしら」
「勘違いしないでください。別にあたしは貴女の所有物を奪ったり、社会的立場をおびやかそうと息巻いているわけではありません。ただ、貴女の気持ちを確かめたくなっただけです」
 そこまでいうと、彼女の目元が急激に潤みを含んだ。白目が薄く赤色を帯び始める。
 彼女は私を忖度しようとしているという。
 本来ならあまり歓迎できたことではないが、あのすてきなすてきな写真を見せてくれたお礼に、私は出来るだけ真摯な姿勢でそれに付き合おうと思った。
「貴女は、祖母を殺しましたね」
「あら、気づいていたの」
 自分でも拍子抜けするほど、すんなりと彼女の言葉を受け入れている自分がいた。
 心のどこかで、今彼女にそう指摘されることを覚悟していたのかもしれない。
 苺ちゃんの瞳から、一筋の涙がつーと流れ落ちる。ハンカチを手渡してあげたかったが、今は身じろぎ一つ取れそうにない。
 返答した口調こそ落ち着いていたが、私はひどく動揺していた。か細い涙声が、言葉を紡いでいく。
「貴女は、糖尿病がよくなるブレンドティーだと偽って、毎日祖母に糖分の高いお茶を飲ませました。プラスチック製の透明なポットになみなみ入れて、冷蔵庫に保存したものを」
「まるで見てきたようだわね。なにを根拠に言っているのかしら」
「祖母の日記です。祖母はすべて気づいていました。気づいた上で貴女のお茶を一滴残らず飲み干していたんです」

 十一

 ハーブティーには漢方に使われるような原料の品種もある。
 美容効果や健康促進効果が期待されるのは、他ならぬ薬と同じように体内に何らかの効果をもたらす期待度があるからだ。
 薬は適切量や身体状態を見誤れば毒にもなる。
 ーーオーバードーズ。つまりは、過剰摂取による死は存在する。
 しかし、私はハーブティーの有毒性によって、林檎さんを死に至らしめたわけではなかった。
 日常生活に密接する飲食物で過剰摂取量が存在するのは、なにもハーブティーだけではない。塩も醤油も、酒も煙草も、そして砂糖だって、毒になり得る。
 ハーブティーの中にはまるで魔法のような不思議な効果を持つものが存在し、私はそれらの魔法を、砂糖を、隠すためのカモフラージュに使ったのだ。
「そう。日記にはなんて書いてあったの。詳しく教えてくれないかしら」
「最近、ギムネマと砂糖が異常な減り方をしていると記述がありました。そのあと、貴女が特別ブレンドと題していた予想レシピが」
「そのレシピの予想を教えて」
「レモン、ギムネマ、砂糖、マロウ、オレンジジュース。甘い臭いは冷やすこととレモンの酸味でごまかし、それから味はギムネマの甘みを感じなくさせる作用でカモフラージュ。色はカモミールに近づけるようにマロウとオレンジジュースで調整。カモミールには糖尿病を抑制する力がありますものね」
 思わず笑みが口元に浮かぶ。本当に林檎さんはハーブティーに詳しかったのだなと、感心したのだ。
「すごいわね。ほとんど当たり。でも、マロウは不正解。代わりに同じ変色する特性を持つハイビスカスを混ぜていたの。あれは、店に置いていない、個人的な持ち物だったから気づかなかったのね」
 緊張が解れてきて、身体が動くようになった。座席からすこし腰を浮かせて、ズボンの後ろポケットにある赤いハンカチを苺ちゃんに渡す。彼女はそれを黙って受け取るが、涙を拭うことはしなかった。
「祖母は嬉しがっていました。祖父と始めたこの喫茶店が賑わうことを。閉店を逃れて、続けられることを。貴女に店を任せれば安心だと、祖母は考えていました」
 涙声は続く。
「祖母にとってこの店は、命よりも大切なものでした。愛していた祖父との思いでが詰まっている場所でしたから。だから、この店を救った貴女の殺意に気付いていながらも、貴女の意に従ったんです。貴女に殺されることを自ら選んだのです」
「解せないわ。正気の沙汰とは思えない。恩人になら殺されてもいいっていうのかしら」
「勿論、祖母はなにも感謝の気持ちだけで死を選んだわけではありません。貴女の働きによって人生の悔いが解消されて、人生に執着を持たなくなったというのもあったでしょう。そして、日記によると祖母は貴女に感謝すると同時に、疎んでもいたとあります。祖母は自らの死によって、恩人である貴女を裁きにかけようとしたのです。祖父と祖母の後継者たるかを。被告は貴女、裁判員は父をはじめとした荊来の人間です」
 彼女の言葉の意味が上手く呑み込めず、私は黙って先を促す。
「この店が貴女を雇ったのは、祖母が医師から余命は少ないと宣告された為でした。店が潰れてしまうのが唯一の心残りだというので、父が新しい働き手を探したのです。丁度、近所に東京から地元に帰ってきて仕事を探している女性がいるという情報を耳にしました。その女性というのが、つつじさんです。父は貴女の家に電話して、声を掛けました」
 そこまで苺ちゃんの話を聞いて、なんとなく彼女の言った、林檎さんが私にかけたという『裁き』の意味が分かった気がした。
「元々、つつじさんはここの次期オーナーとして雇われていたんです。でも、祖母や父はそれを貴女には告げませんでした。行動に反して、父は心の底で祖母の死後に店を畳む気でいて、祖母はそれをなんとなく察していたからでしょう。だけど、貴女は結果を出した。出してしまった。利益という形で、店を経営し続ける口実とメリットを生じさせた」
 ――そう。その話だと私は、苺ちゃんの説得などなくとも、本来で有れば喫茶カモミールのオーナーにすんなりと任命されていた筈なのだ。なのに、彼女の父はこの店を畳もうとしたという。
 軌道に乗った、手間いらずの収入源を無くす理由など本来はない。
 この店舗を売りに出した所で、買い手もいないだろうし、仮に売れたとしても大した金額にはならないだろう。
 しかし、食い扶持を入れる相手が親族を殺した張本人だとすれば、話は別だ。
「祖母が死んで、父は迷っていました。祖母の様態が急変して入院している間に、祖母の書いた日記を発見したからです。祖母を殺した張本人に店を任せることに、苦悩だと感じたからです。父は祖母の命日、貴女に店を任せるくらいなら潰した方がましだろうとまで言っていました」
 私は林檎さんの通夜の時に、苺ちゃんの父親から店を畳む旨を伝えられた時のことを思い出す。
 思い返せば、妙に棘のある激しい口調であった。
「だから、祖母の死んだ日、通夜の後、あたしはつつじさんを真偽しようと、ここを訪れました。覚えていますか」
「さあ。この年になると、物忘れが激しくなってね」
「まだ、三十代でしょう」
 苺ちゃんは涙をハンカチで拭いながら笑う。
 十代になにがわかるのよと、私も笑う。
「貴女は、ひどく狼狽していました。あたしを寝室に招いて、服を剥ぎ、キスをし、胸に左手を沿わし、膣に右手の中指を入れました」
「気持ちよかったかしら」
「幸せな時間でした」
「そう。一時そういう店に勤めていたから、当たり前と言えば当たり前なんだけど。百戦錬磨の中指よ」
 右手を彼女の前に掲げて、舌をならしながら中指を小刻みに動かして見せる。「最低です」と、彼は眉を顰めながら笑う。
「様子のおかしい貴女が、祖母を殺したことを呵責している証拠だと判断したあたしは、父を必死に説得しました。祖母のたったひとつの遺言だと、貴女に店を継がせることを」
「それは、残念ね。正しくは異常犯罪者が、高揚感に捕らわれて性欲を持て余していただけ。現に、私は懲りずに貴女の子を流産させようと躍起になっているわけだし」
「ええ。その通りかもしれません。今話している限り、貴女は祖母の殺害を悔やんでなんていないように見えます。つつじさんは正真正銘のシリアルキラーなのかもしれません。――本当は、自分のせいで妊娠させたあたしを救うために、不可抗力的に子供を殺す手だてをしているのかも…なんて、希望的観測も抱いていたのですけどつつじさんはあたしの出産を内心反対しているようにみえましたから。しかし、どうも違うみたいです」
「私にだって良心はあるからね。実はさっきまで、そんな大義名分を心の片隅で抱いていたと錯覚していたわ。苺ちゃんは私にとって恩人でもあるわけだし、妹のように可愛いと思っているのも本当。でも、あの写真がすべてを物語っているわ。私は、貴女の子供を殺したかったのよ」
 苺ちゃんのお腹の膨らみを目にする度に、私はバスケットボールを奪うように、この手で叩き落としたい衝動に駆られる。
 そんなことをしてしまえば、私は一生を棒に振ってしまうだろう。
 親族にだって迷惑がかかる。犯罪者だの、社会不適合者だのと後ろゆびを指されてしまう。
 だから私は、流産を促進するお茶を彼女に大量に飲ませた。他人に悟られずに衝動が望む目的を達成するために。
 三年前、林檎さんを密やかに壊していったように。

 十二

「貴女のお腹をみる度にね、私、そのお腹を強く強く叩きたいなっていつも思うのよ。貴女を襲ったあの夜もそう。すべては貴女の綺麗な瞳を破壊するためよ」
「解せませんね。正気の沙汰ではありません」
「そうかしら」
 先ほど口にした悪態が、自分にそのまま返ってきたことに私は笑う。
 しかし、こんな話は巷に跋扈するよくある事象だ。主婦は高血圧の夫を殺すために味噌汁の味を必要以上に濃くするし、看護婦は腹いせに植物化した患者の点滴に異物を混入するし、神経質なサラリーマンはマナーの悪い一般人を駅のホームから突き落とす。
 これらは、人殺しであっても罰せられることはない。法や人の目をかいくぐった知能的習性に過ぎない。
 見目愛くるしい猫でさえも、喧嘩で同族を殺めることはある。殺意を抱くことは人間という狭い範疇を越えて、動物の本能でもある。
 法と罰という抑止力が無ければ、人間は容赦なく人を殺すだろう。だからこそ、法と罰に雁字搦めにされたこの国では一部の人間だけが、秘密裏にその本能を全うする。
 そんなことを苺ちゃんに告げたところで、私が狂っているという事実は彼女の中では覆ることはないのだろうけど。

 十三

「つつじさんは、まるで蛇です。獲物を絡め取り、締め付け、意識を失いかけたところで牙を突き立てて、毒を注入する。獲物が徐々に弱っていく様を眺めることが好きな、そんな悪趣味な蛇です」
「素敵な表現ね」
「でもあたしは、そんな貴女に、溜まらなく惹かれてしまうんです」
「貴女の将来が心配だわ。悪い男に引っかからないようにね」
「悪い女にはもう引っかかっています」
 ぎこちなく笑みを作ると、苺ちゃんはカップの中に残るカモミールを飲み干す。
 私は、空になったカップに、カウンターに置いていたポットからおかわりを注ぐ。
 冷めて湯気も立たず、薄暗い店内の雰囲気も相俟ってあまり美味しそうに見えない。
 カップにぼんやりと焦点を合わせたまま、先ほどまでとは打って変わった気の抜けた表情をしながら、苺ちゃんはさらに言葉を紡ぎ始める。
「つつじさんは先ほど、祖母が貴女の毒を自ら進んで飲んだことを不審がっていましたね。でも、私にはその心理が分かります。たしかに日記には確かに貴女への嫉妬についても書かれていましけど、でも、きっと祖母はそんな負の感情に支配された訳ではなく、その感情を覆すほどに、貴女を尊愛していたのだと思います。貴女に差し出された贈り物が、例え毒だったとしても、私たちにはそのプレゼント事態が嬉しかったんです。…喜んで享受した結果が、たとえ流産や死であったとしても、私たちはそれを甘んじて受けます。それは他でもなく貴女を愛しているからです」
「理解に苦しむわ。どれだけ言葉を重ねても、きっと私は苺ちゃんの気持ちも、毒を飲み続けた林檎さんの心境も、理解できない」
 これが失言だったようで、苺ちゃんは急に目つきを変えて、カップから目を離し、私を睨みつけた。情けないことに、私はその視線で少し腰を引いてしまう。
「では、こう言えば腑に落ちますかね。あたしたちは毒と分かっていても、つつじさんの淹れるお茶が美味しくて飲むのを止められなかったんです」
 怒鳴られると身構えていたので、私はその淡々と語られた台詞にひどく拍子抜けした。
 真剣な顔をして、そんなことをいう苺ちゃんが可笑しくて、私は大声をあげて笑う。女の子にこんな風に口説かれるのは初めてである。
「そうね。その通りよ。ハーブティーを売りにしている喫茶店のオーナーとしては、冥利に尽きるわ」
 席を立つ。ジャムを二つの小皿にたんまりと載せて、カウンターに運ぶ。
 それから、自分用のカップを持ち出して、ポットに残っていたぬるくなったカモミールティーを注いで、一口に飲み干す。
 手つかずのままに放置されていたスコーンを一つ摘み、ジャムの山につけて、一口食べる。もっそりとした食感がチョコレートの甘みと一緒に口内に広がる。
「美味ひいわよ。食べなさいな」
 口にスコーンが残ったまま、苺ちゃんにも勧めた。まるで叱られた後の子供みたいな顔をしながら、苺ちゃんは皿の上のスコーンをジャムにつけてから口へと運ぶ。そして、口をもごつかせて、美味ひいと言って、笑った。

 十四

 しばらく、二人で無言の内にスコーンを食べた。苺ちゃんは涙と一緒に鼻水が止まらないらしく、カウンターに置かれたティッシュに何度も手を伸ばして鼻を掻む。小さい鼻が赤くなっていくのが可笑しくて、口元が弛む。
 いつの間にか、外の雨はやんでいる。苺ちゃんが「あっ」と、短い歓声を上げてウッドデッキに通じるガラス戸を指さした。
 イスを回転させてそちらを見やると、大きな虹が水平線に浮かんでいた。
 綺麗なアーチとなっておらず、曲線を描いたモニュメントのような形状をしてい。まるで海の底から大きな稲穂が伸び、首を垂れているみたいだ。
 雨と一緒に、苺ちゃんの涙も引いたようで、彼女はスコーンを食べる手を止めて再びしゃべり始めた。声は少しガラついているが落ち着きを取り戻している。
「つつじさんが紹介しただけあって、あたしと華生君は非常に気が合いました。性格が似ていたのだと思います。あたしと彼は、同じ人に恋をしていたんです」
「異性同士で恋のライバルになるなんて、そうそう有る話じゃないわね」
 私の軽口には意にも止めない様子で、彼女のつぶやきはまだ続く。
 彼女の視線は大きな虹を依然として捕らえている。
「彼が予定通りに東京に進学したのは、この町を離れることが本当の目的だったんです。叶わぬ恋の想い人の傍にいることが、どんなに辛いことか、あたしにも分かりますから」
 若いくせに一丁前に失恋を語るとは。最近の若いものはと内心でぼやきながら、肩を竦める。
「つつじさんが紹介してくれた人だから、あたしは彼の傷心慰安に付き合いました。…あたしと華生くんは交際していたわけではありません。ただ同じ心の傷を持つ者同士で、傷を舐めあっていたんです。彼の目的は、あたしの肉体でした。いえ、正しくはつつじさんの代替品でした。別にそれはあたしである必要もなかったんです。あたしもそれを分かった上で、彼に付き合いました。それはすべて、貴女から頼まれたお願いだったからです。貴女の役に立つという事実があたしを満足させるからです」
「そう」
「そして、この子を産むのは、この子が貴女とあたしの子だからです。篠崎君の中には貴女の遺伝子が残っているでしょうし、貴女の作ったお茶を栄養にしたこの子は、誰がなんと言おうと、つつじさんの子です」
「貴女は狂ってる」
「ええ。お互いさまですね。ごちそうさまでした。また、来週。プレゼントした本の感想、聞かせてくださいね」
 ポーチを手に取り、苺ちゃんは席を立つ。いつものように、代金を支払いはパスして、まっすぐと店の出入口の扉に手をかける。
 雨上がりの日差しを受けて、四方で雨水が反射する眩しい石段を彼女は降っていく。
 彼女の手にある赤い傘は閉じられている。今日の彼女の訪問の前と今とでは、雨が止んだ以外に何が変わっただろう。
『きっと、何もかも変わっている』
 胸中の誰かが呟いた。

 十五

 後かたづけをする途中、茶葉の瓶を仕舞う棚のガラス戸に映った自分の顔は、相も変わらず目つきが悪く猟奇的で、凶悪だった。
 彼女のお陰で長年の疑問であった、自らの本質について答えが出た。
 私の蛇。
 美しい少年と少女を獲物とし、彼女らをじっとりと締め付け、じりじりといたぶり殺そうとする蛇。
 蜷局の中で美しい瞳の輝きが失われていく様を特等席でみるのが、私は溜まらなく好きなのだ。
 可愛い、可愛い、私の苺ちゃん。これからも、じっくり、ゆっくり時間をかけて、鱗の跡がその屍に残るように強く締め付けてあげる。

 十六

「でも、篠崎君を愛していなかったというのは嘘よね。だって、貴女はあんなに楽しそうに笑っていたもの」
 ジャムのこべり付いた皿を洗い終わり、蛇口を閉めた時、自然と声がでた。
 自分の想像に確証を得たいがためかもしれない。
 貴女の言うとおり、確かに貴女は私に思慕の念を抱いていたかも知れない。でも、今は違うでしょう?
 目を瞑り、瞼の裏にある情景が映りこむ。
 去年の冬のことだ。クリスマスイブのプレゼントにと、苺ちゃんは篠崎君には内緒で、手編みのマフラーを編もうと企てた。
 その際に、彼女は私に編み物を習いに、連日夜遅くに、この店へと訪れていた。
 彼女は、マフラーを手渡すことを心底楽しみにしていた。あの日々の彼女の笑顔は、私と一緒に居たことが嬉しいから浮かべていたわけでは無かったはずだ。
 貴女は嘘を吐いている。
 口頭でそう伝えてしまえば、きっと彼女は本当に壊れてしまうのだろう。
 私は別にそんな彼女をみたいとは、心の底から思えなかった。 

 了