理解りみ深し君

理解りみの深いブログ

【小説】ゆびゆび【SS】

朝、いつも通り目を覚ますと右手の親指が根元から消えていた。

切り口に剥き出しの肉片もなく、何ヶ月も前からそうだったように、肌色の皮膚が表面に貼られていた。

なんだこれは、夢なのか。

ぼんやりとした頭とは裏腹に、心臓は緊迫感から激しく脈打っている。

落ち着け、これは何かの間違いだ、夢でなければ幻覚に違いない。

そう思い、祈るような心持で右掌から視線を離し、タバコの脂で黄ばんだ天井のクロスを見つめながら、左手で右手親指の辺りを弄る。しかし、ある筈の感触はなく、体感したことのないような骨抜きの肉感を抓むばかりであった。

体中から冷たい汗が流れ出し、恐怖から顔が歪む。訳の分からぬ状況下に
、今にも泣き出しそうになったその時。

「何かお探しですか」

と、涼やかな男の声が聞こえて其方を向く。

窓枠に身を窮屈そうに屈めて挟まっている男が此方を伺っていた。

男はスーツ姿に白い手袋を嵌め、頭にはシルクハットが乗っていて、杖を携えていた。

見知らぬ男である。

通常ならば、驚き、慄き、男に警戒心を持つべき状況なのだが、現在私は並々ならぬ異常事態に直面しているため、そんな精神的余裕を持ち合わせていない。

「親指が消えたんだ!」

縋る様な思いで私は見知らぬ男に訴えた。親指の消失した右手を彼の顔に向けて翳しながら。

「これのことですか?」

男は、首から提げた細い麻を由った紐を引っ張り、その先端に括り付けられた青白い親指をシャツの襟元から取り出した。

「それは、私の指なのか」

「いいえ、私の指です。さっきそこで拾いました」

そういって、男は杖を持った右手を伸ばし、私の腰を置くベッドの上を指差した。

「やっぱり、私のじゃないか。返せ、今すぐに」

私は男に向けて怒鳴りつける。

対して男は怯むような様子もなく、ニヤニヤと笑うだけだった。

「返してあげてもいいですが、条件があります」

「な、なんだ」

しまった。

相手の底知れない余裕の笑みに押されて呑まれて条件を飲み込むような言及をしてしまった。

「女を一人飼ってほしいのです」

「女を買う?」

「いえいえ、違います。別に性的行為に及んでほしい女性がいるわけじゃありません。暫くの間、あなたに世話を焼いてほしい人がいるのです」

「どういう意味だ」

男の顔が一層笑みに歪む。

「この子です、この子を彼方に育てていただきたい」

男がスーツのポケットに手袋を嵌めた左手を突っ込んで、取り出したのは人形のようだった。

髪の色がブラウンの長髪。服装は大人びたスタイルで、ジャケットを羽織り、深い緑色のロングスカート。

はてさて、リカちゃん人形のようなものだろうか。

「その人形を預かればいいのか」

「ただ預かるわけじゃありませんよ、責任を持って面倒を見ていただかないと」

男は相変わらず窮屈そうに窓枠に収まったまま、笑顔で念を押した。

右手には杖、左手には人形と両手が塞がっているが、全く体のバランスを崩さない。

有無を言わせぬ意志の強さが、男の飄々とした態度からもキャッチできる。

「・・・・・・」

これは駆け引きだとか、契約だとかとは違う。

表向きはそういう風を装ってはいるが、そもそも男は私の親指を無断で奪っているのだ。

彼がやっているのは何が何でも私にYESと肯かせる為の脅迫でしかない。

脳裏に悪魔という言葉が浮かび、心臓を見えない手で掴まれたような錯覚を覚えた。

「分かった、条件を飲もう。だから、頼むから早く指を返してくれ」

「承知しました」

男は首から提げた私の親指を両手で外し、その悪趣味なペンダントを私目掛けて投げた。

そのペンダントをキャッチすると、物を掴む感触の変わりに失くしていた親指の感触を取り戻した。

窓を見やると男の姿は消えていた。

5分ほどの放心状態からわれに返り、夢見心地のまま寝室を出ると、見知らぬ女がドアの前に立っていた。

ブラウンの長髪、高級そうなジャケット、深緑のロングスカート。

どこか既視感を覚える容姿だった。

「おはようございます」

「君は誰かね」

「何を寝ぼけているのです。彼方の妻です」

「馬鹿なことを言うな。私の妻は君ほど若くないし、綺麗でもない。妻をどこに隠した?」

「言っていることの真意はよく分かりませんが、彼方の探している妻とはもしかして、これのことですか?」

見知らぬ女はジャケットのポケットに繊細なガラス細工のような美しい指先を伸ばすと、小汚い人形を取り出した。

その人形が身に着けている服装は確かに、普段妻が愛用しているヨレヨレのパジャマであった。

「この人形は先ほど、キッチンテーブルで拾ったんです。彼方のものだったんですね。返してほしかったら・・・」

「いや、返さなくてもいい。その人形はそのまま君が預かっていてくれ」

女の顔から仮面のように張り付いていた笑みが消えた。