生理でもないのにお腹が痛いことがある。
その痛みを覚える度に、私は幼少期のことを思い出すのだった。
告白しよう、私は不可抗力ではあったが、一度人を殺したことがある。
さらに言えば、その殺人は公にはなっていないし、まず、被害者である女の子は世間では行方不明という扱いになっている。
洗いざらい、その一部始終を簡単に記そうと思う。それで、肩の荷も降りるというものだ。といっても、語ったところで誰も信じないと思うのだが。
事件が起こったのは私が小学五年生の頃だったから、十年以上も前のことだ。
私の地元ではある都市伝説が根強く信じられていた。郷土の妖怪といった類いだろうか。人狐と書いて『ニンコ』と呼ばれる存在が、ある家を差別の対象にしていた。
人狐は人に取り憑き、取り憑かれた人は人狐持ちと呼ばれる。人狐持ちに恨まれると、恨まれた人は発狂し、人狐持ちの思いのままに操られてしまうのだとか。
また、人狐持ちと結婚すると、結婚した相手の家には人狐の眷属が押し掛けて不幸な目に遭わせるとか。とにかく、縁起でも無いことばかりを引き起こす、悪い存在とされていた。
私のお隣さんの良子ちゃんは、どうもご近所さんから人狐持ちとまことしやかに囁かれていたらしい。
理由は、彼女がことあるごとに腹痛を訴えるからだった。
人狐持ちは人狐をお腹に住まわせているという言い伝えがあるのだ。
大人は表だってそんな話はしないけれど、それを耳にした子供達は、面白がって良子ちゃんを囃し立てた。
その囃し立てた子供達の中に、私の弟が居た。弟は良子ちゃんと同級生だった。
私はその事実を友人から聞いたとき、弟を批難した。良子ちゃんが可愛そうというのもあったが、一番の理由は友人から弟の件で私自身が白い目で見られるのが耐えられないからだった。
「あんたねぇ、馬鹿じゃないの。この時代に妖怪なんて、非科学的なもの信じるなんて恥ずかしくないわけ」
「はぁ? 別に信じてるわけじゃねぇよ。ただ、アイツ暗くて気持ち悪いから、みんなで虐めてるだけだし」
「尚更ダメだよ馬鹿。女の子に手を出す男なんて、最低だよ。女の敵。沙耶ちゃんに言いつけてやろう」
「はあ? なんで沙耶が関係するんだよ」
沙耶ちゃんは弟が当時想いを寄せていた、私の友人だった。
「言って良いわけ」
「好きにしろ!」
結果を言えば、私の半場恐喝にも似た説得は大失敗だった。何故、失敗ではなく、大失敗なのかというと、説得は全くの逆効果で、私に腹を立てた弟は良子ちゃん虐めの首謀者となり、さらに彼女への凶行をエスカレートさせたのだ。
私がどんなにキツ目に当たっても弟は改心しようとせず、そのまま一ヶ月が経ったある日のこと。
口数の多い弟が、その日は帰ってから一言も喋らないのに、私は違和感を覚えた。
「ねぇ、あんたどうしたの。お腹でも痛いの」
「うん、ぽんぽん痛いの」
いつもとは違う、舌足らずの口調だった。まず、弟はお腹のことをぽんぽんなどと言わない。
「あんた、もしかして良子ちゃんの真似してるの」
「えへへ、バレた?」
無邪気に笑みを返答する弟に、心底鳥肌が立った。思わず、弟の頬を平手で叩く。
「痛い・・・、何するのお姉ちゃん。乱暴しないで。お願い」
いつもだったら、取っ組み合いの喧嘩が始まる所だったが、その日は違った。まるで、本当の女の子のように、涙を目に湛えて上目遣いで懇願するばかりである。
「目を覚ましなさい、目を覚ましなさい。目を覚ましなさい、目を覚ましなさい!」
何度も、何度も、繰り返し弟を打った。しかし、弟は女々しく泣き声を上げるばかりだ。
「何やってるんだ。止めなさい!」
珍しく早く帰ってきていた父がリビングの騒ぎを聞きつけて、自室から飛び出してきた。
「だって、お父さん。コイツおかしいんだもん。良子ちゃんの真似してるの」
「それは・・・、本当か?」
恐る恐るといった様子で、父は弟に近づく。
「おい、俺が分かるか」
「・・・うん。分かるよ。お隣のおじさん」
「こりゃ、間違いない。狐憑きに遭ったな。良子ちゃんは本物の狐持ちだったみたいだ」
「嘘、そんなこと有るわけ・・・」
有るわけ無いと断定したかった。しかし、今の弟は悪ふざけの演技をしているようにはとてもじゃないけどみえない。
ちょっと、お隣さんに行ってくるよ。
父は弟を連れて、家を出て行った。私はそれを黙って見送ることしか出来なかった。
翌朝、自室のある二階から降りてリビングに入ると、そこには朝食を食べていた父の姿があり、その表情は暗かった。
「どうだった」
「ああ。昨日のことか。ダメだ、全く取り入ってくれない。良子ちゃんに会わせて欲しいとお願いしたんだが、断られ続けた。最後には警察を呼ばれてしまったよ。まいったな」
弟の姿はリビングにはない。今日は学校を欠席させるよ。と、父は言った。
翌日、帰宅すると舌足らずの声で母とお喋りする弟の姿を見て凍り付いた。
その翌日も、そのまた翌日も、弟が元に戻ることはなかった。その間、精神病院に連れていくなど、色々と手を施したがまったく成果は得られなかった。
弟がおかしくなってから一週間が過ぎたある日、私が小学校から帰る途中で寄り道をしている良子ちゃんと遭遇した。
木々が生い茂りほぼ獣道と化した細長い山道に彼女は登るところだった。
苔のむした石段を、枝や針の生えた植物を掻き分けて、よいしょ、よししょ、と小さな掛け声を上げていく。
一体あんな所を登って何をするつもりなのか、気になって、私は彼女の跡を付けることにした。
十分に距離を取って、彼女の後ろを出来るだけ音を立てないように尾行する。彼女は随分と慣れた様子で、階段を上りきった先の分かれ道にも迷わず道を選び進んでいく。
やがて、道無き道は行き止まりに差掛かったのか、良子ちゃんはある場所で背負っていたランドセルを地面に下ろしてしゃがみ込んだ。
しゃがみ込んだ場所には小さな石でできた祠があり、彼女はランドセルから取り出したスーパーの惣菜コーナーでみる透明なプラスチックの容器をそのまま祠の前に供えた。
一度、合掌するとそのまま来た道を戻っていく。
私は、道から外れた山の斜面をゆっくりと滑り降り、彼女になんとか見つからないよう隠れた。
良子ちゃんをやり過ごしたあと、祠の方へと駆け寄る。お供え物は何の変哲も無い、小さい稲荷寿司だった。
「変なの」
今度は、しゃがみ込んで祠の中を確認することにする。
「ひっ、ひあぁぁ!」
私は思わず叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
そこには、石像があった。しかし、よく見る地蔵なんかではなく、石の板に人の顔が浮かび上がったような形状をしており、その顔が、目をつむった弟の顔にそっくりだったのだ。
その石版は、苔がむして、細い蔦が張っており、祠と同様に所々風化してボロボロになっている。
「何してるの、お姉ちゃん」
背後から、舌足らずの声がした。恐怖のあまり声が出ない。
「ねえ、この間叩いたの、すっごい、すっごい、痛かったよ。あの時のお姉ちゃん、すっごく怖かった」
一歩、また一歩とこちらに歩み寄る良子ちゃん。私は気が気では無かった。このままでは、弟と同じ目に遭わされる。石にされてしまう。
「今日は優しいお姉ちゃんだよね」
「うわぁぁぁぁ!」
私は、叫んで、彼女を山の斜面へと体を押して、転がり落とした。
場所が悪くて、半ば崖になったそこを、彼女は悲鳴も上げずに落ちていった。
「嘘・・・」
しばらくの間、頭の後ろが肩甲骨に触れる角度まで、首が曲がっている彼女を呆然と見つめながら、私は腰を抜かしてへたりこんでいた。
一分も経たない内だと思った。彼女のお腹が、急激に膨らんだかと思えば、制服を破って、中から何かが飛び出した。
もぞもぞ、土から這いでるようにして出てきたのは、イタチによく似た生き物だった。
『人狐だ』
人狐は良子ちゃんを食い破った腹の箇所から、貪り始めた。私は多分、そこから走って逃げたと思う。
弟はその日に私たちの前から姿を消し、今もなお行方不明である。
私が成人を迎えて、それから間もなく初めて恋人を持った頃、正体不明の腹痛が時々不意に襲うようになった。
それと同時期に、電柱や建物の物陰から、小動物の鼻先を良く見かけるようになった。近づいて、その物陰のあった場所をみても、そこには何も居ないのだが。